南箕輪村は、明治8(1875)年2月18日に6つの村(久保村、大泉村、北殿村、南殿村、田畑村、神子柴村)が合併して誕生し、箕輪郷の南に位置することから、南箕輪村と命名されました。
箕輪郷とは
本村名の由来である「箕輪郷」は、現在の箕輪町・南箕輪村、および伊那市の西箕輪・手良一帯を指す歴史的地名です。
起源は平安中期の荘園「蕗原(ふきはら)庄」に遡り、室町後期には「箕輪」「箕輪郷」「箕輪領」といった呼称が用いられました。
さらに、応仁3年(1469)と文明9年(1477)に編まれた諏訪社の記録『諏訪御符礼之古書』にも「箕輪郷」の名が記されています。
https://books.google.co.jp/books?id=vYcDZygQHLIC&pg=PP111#v=onepage&q=箕輪&f=false
それ以前の記録には、箕輪郷という呼称はみられないため、箕輪郷は中世以降の成立とみるのが妥当と考えられます。
天正19年(1591)『信州伊奈青表紙之縄帳』では、中坪・野口・下寺・福島・福与・三日町・長岡・小河内・大井手・八乙女・上古田・下古田・松島・木ノ下・窪村・殿村・田端・御子柴・沢尻・大屋・大泉・中城・与地・羽広・上戸・富田の26か村・計11,326石が「箕輪郷」を構成したと記録されています。
また、箕輪の由来ですが、天竜川右岸の扇状地や半円形の地形など、「箕(み)」のような形状から転じた地名と解されますが、規模のとらえ方には諸説があります。
なお、現在、全国の自治体名(市町村名)に「みのわ」を採用しているのは、箕輪町と南箕輪村の2件だけです。
南箕輪村になった経緯
南箕輪村は明治8年に成立しました。
背景には、明治6年ごろから当時の筑摩県県令・永山盛輝が掲げた「原則として一小区をもって一村」という方針があり、この方針に基づき町村合併が一気に推進されたことが挙げられます。
穂屋村(ほやむら)
実は、当初は「第一七大区九小区」であった北殿村、南殿村、田畑村、神子柴村の4ヶ村が合併して穂屋村と称することが明治7年7月ごろは進められていました。
穂屋の由来は、この地域にあった御射山神社に関係するとも考えられています。
二本の大きな落葉松の木の下には「穂屋(ほや)」が設けられ、石碑が建てられている。今でも神子柴(みこしば)区では、毎年八月二六日に神事を行っている。
蕗原村(ふきはらむら)
一方、大泉村は五ヶ井堰を守ってきた五ヶ村(大泉村、大泉新田村、吹上村、中曽根村、富田村)と合併し、蕗原村と名付けようとしていました。
南箕輪村が誕生
このような動きがそれぞれあり、さまざま曲折がありましたが、最終的に明治7年8月に村落合併願書が出され、6つの村(久保村、大泉村、北殿村、南殿村、田畑村、神子柴村)が合併して南箕輪村が誕生しました。
